1951僕が生まれたのはジョン万次郎の故郷土佐清水市です。京都、大阪で幼年時代を過ごし、訳あって小学1年の時、土佐清水市に舞い戻り祖父母の経営する食料品店で育ちました。

当時の土佐清水は宗田ガツオ(めじか)で景気よく料亭千福、キャバレー銀馬車、映画館は(東宝、日活、東映、松竹系)と4館あり大盛況でした。小学生時代、佐田啓二主演の映画「雲が流れるとき」土佐清水ロケで県交通バスの車掌役の倍賞千恵子が祖父母の経営する食料品店に卵を買いに来てました。はじめての芸能人との遭遇でした。

当時日活映画全盛の時代,裕ちゃん、エースの錠、マイトガイの旭が憧れの銀幕スターでした。守屋浩のぼくの恋人東京へイッチッチ(僕は泣いちっち)を聞き東京に強い憧れを持っていました。歌謡テレビ番組はお昼に放映されていた「ロッテ歌のアルバム」御三家の一人舟木一夫の「学園広場」をよく口ずさんでました。

中2から高知市菜園場の近くに引っ越し友人から教えてもらったラジオ番組「小島正夫の9500万人のポピュラーリクエスト」に聞き入りポップスに出会いました。ジョニーシンバルの「ミスターベースマン」ボビーソロの「頬にかかる涙」シングル盤のレコードを初めてお小遣いで買いました。ラジオからテレビへ小学生時代は力道山にルーテルズ、栃錦に若乃花、長嶋に村山の対戦に熱狂しました。NHK[夢で逢いましょう」徳川無声の「私だけが知っている」民法は高知放送(RKC)1局のみで午後6時からの「光子の部屋」から「シャボン玉ホリディー」に釘づけでした。中学2年に「東京オリンピック」高校1年時は「ビートルズ初来日武道館公演」でした。

高校卒業後は麹町の東京YMCA国際ホテル学校に入学、六本木にある岩崎久弥の屋敷跡「国際文化会館」でナイトクロークのバイト、水上勉、三島由紀夫が来店していたステーキハウス銀座「末広」でのバイト(仕事帰り日比谷公園松本楼の火事に遭遇)映画はイタリア文化会館、テアトル東京でアラビアのロレンス、、並木座で私が捨てた女、音楽ライブは渋谷ジャンジャンでハッピーエンドライブ、演劇は渋谷の天井桟敷、紀伊国屋ホールでつかこうへい「熱海殺人事件」等バイトの合間に各劇場へ足げく通い東京文化を満喫しておりました。

ホテル学校卒業後は西新宿新都心にできた超高層ホテル「京王プラザホテル」3期生として入社、初年度の配属は格調高いメインバーブリアン、一流デザイナー剣持氏の設計で湾曲したカウンターの背景には土門拳のモノクロ写真、ゆったりしたブース横の調度品には淡い間接照明、朝10時から深夜2時までオープンしており経済人、小説家、芸能人、スポーツ関係者様々な人間模様が垣間見られました。フレンチレストランのサービスマンを経てルームサービスを担当、マイルスデイビスにソールボンファン(舌平目のムニエル)を、モハメドアリにフレッシュオレンジジュースを部屋までルームサービスしたこと、世界的指揮者カラヤン宿泊期間は隣の部屋で一晩中待機するバトラー補助を担当しました。部屋に入ると美人の通訳と共に深紅の大きなバラが飾られていました。カラヤン専属スタッフから普門会館で開演されるカラヤン指揮のクラシックコンサートのチケットを頂き最初で最後のクラシック音楽ライブを鑑賞しました。

 高知は坂本龍馬ばかりが有名であるが、幕末そして自由民権運動で時代をリードする人材を生んだ。幕末には龍馬を初め多くの志士が命を落とした。190人余りという数字は薩摩や長州を大きく凌駕する。にも関わらず、その10年後の自由民権でもまだまだ人材を残していた。幕末を人材の第一弾ロケットとしたら、自由民権は土佐が発した第二弾ロケットだった。

 小野梓を知っているだろうか。だれもが早稲田大学の開祖は大隈重信だと思っているが、大隈が夢見た育英事業を実際に実現したのは土佐出身の小野梓という青年だった。

小野は土佐の西のはずれの宿毛という町の出身。どういうわけか宿毛から多くの民権論者が輩出している。吉田茂の実父である自由党の竹内綱、林有造、岩村通俊、大江卓と続くが、先陣を切ったのは小野梓といっていい。

ペリーが日本にやってきた嘉永5年(1852)、に生まれ、明治3年7月、18歳の夏、ひとりで上海にわたり、西洋の東洋侵略のありさまをつぶさに見て目を開かされる。上海の宿で世界連邦論ともいえる『救民論』を漢文で書き上げていた。

 

 翌年、アメリカに遊学し、さらに明治5年には大蔵省派遣の留学生としてロンドンに逗留する。ロンドンでは財政 学を学ぶが、小野の関心はイギリスの政治にあった。英国国会に通い、グラッドストーンとディズレリーの議論を目の当たりにして、非常な感動を覚えたとい う。帰国してさらに著したのが『国憲論網』。日本での立憲政治の実現を訴えた。まさに民権運動の先駆け的存在が小野梓だったといっていい。

明治9年には司法省入りし、民法課副長として民法制定の基礎づくりにあたる。参議だった大隈重信に見いだされたのはこの時だったようだ。その後、元老院書記、会計検査官を歴任し、北海道開拓使官有地払い下げ問題では大隈とともに黒田清隆らを糾弾する先鋒に立った。

この事件の後、大隈らは明治政府からたもとをわかって下野した。大隈を党首として立憲改進党が誕生したのは明治15年のこと。小野は改進党の最高幹部の一人として活躍する。

早稲田大学の前身である東京専門学校が生まれたのは改進党創設から半年後のこと。早稲田にあった大隈の所有地に建設された。小野は会計検査官時代から浅 草・橋場に住んでいたが、当時から小野の家は学生のたまり場となっていて、毎夜、天下国家を論じていた。いつのころか「鷗渡会」と呼ばれる集まりとなり、 この若者集団が改進党や東京専門学校設立をバックアップしたのだった。

小野梓なかりせば、たぶん今の早稲田大学はなかった。

小野は若いころから肺結核を病んでいて33歳で世を去る。1886年であるから帝国議会の開設を知らない。

千歳館は戦前からの映画館で戦後すぐに映画を上映を始めた空襲で焼け残った3館の一つです。場所は上町五丁目の交差点を少し西の電車通りの南側でした。昭和20年12月に『愛染かつら』を上映した時には慰楽を求めて長蛇の列だったと高知新聞に写真入りで掲載されていました。この頃は主に松竹映画を上映していた。また昭和21年2月には高知では戦後初めてのアメリカ映画として『ウエヤ一殺人事件』を城見町にあった大和館と二館同時に公開しています。昭和24年頃にちとせ劇場に改名する。昭和29年12月に上映された松竹映画の『忠臣蔵』がちとせ創立30周年記念特別興行という新聞広告から開館は大正13年頃だと推測される。ということは開館時には弁士楽士つきの無声映画を上映していたということです。

平成元年2月高知新聞の熟年ポストという読者投稿欄に当時77歳の宮本初義さんが無声映画を上映していた頃の千歳館の様子を『歌う映画案内人』として投稿されています。スクリーンの前のオーケストラボックスには楽団員が控えている。最後に三味線を抱えたおばさんがはいってくると映画がはじまる。映画に主題歌があるとその楽譜を販売しお客はそれを買って場内にはいる。スクリーンの横には映画案内人とよばれた女給さんが三、四人待機している。お客さんが来ると懐中電灯で席まで案内し、美男美女が銀幕に登場し音楽が盛り上がると女給さんたちが一斉に歌い出す。生の歌声と生の音楽の映画主題歌である。お客さんも唱和し、覚えて帰り、ちまたに流行するのである。昭和6年に日本初のトーキー映画ができた。これにより歌う映画案内人は楽団員と共に消えてしまった。私も学生時代から名画座にはよく通ったんだが当時もスクリーンの左横に少し凹みがあった。今思うにそれがオーケストラボックスの跡だったような気がします。

昭和34年頃から42年にかけてちとせ東映、ちとせ東宝、ちとせ日活と各社の映画を上映し、また昭和39年ごろには日活の封切りと和製ピンク映画を交互に上映していたこともあった。昭和39年7月には唄う日活青春スター夢のステージと題して浜田光夫と松原智恵子が来館している。昭和36年に東宝リベラル労組が賃上げを要求し一ヶ月ちょっと無期限ストライキにはいった時は東宝の代わりにこの映画館で上映されていた。加山雄三の『大学の若大将』はここで封切ぎられています。

昭和42年5月に経営が越知町で映画館やっていた藤原英記氏に変わって館名もちとせ名画座になる。開館番組はビートルズの『ビートルズがやってくるヤアヤアヤア』と『ヘルプ』の二本立てでした。藤原英記氏は40年頃から旭駅前通りにあった旭東宝を借りて約二年間位旭名画座も経営していた。昭和42年に限れば藤原氏は2館の名画座を経営していたことになります。昭和44年に『ロミオとジュリエット』を上映した時はお客さんが切符売り場から5丁目交差点を南へ曲がった所まで並んでいて場内は立ち見でした。この大入りがあったせいか次週からは館名が、ちとせがなくなり高知名画座に変わっていました。

映画ファンと歩む名画座は藤原氏の映画への情熱で創られ高知県の文化向上に貢献されたと思います。『ベニスに死す』『わが青春のフローレンス』『ラストショー』『狼は天使の匂い』など多くの名作が上映されました。昭和49年に開催された『恋のエチュード』の試写会にはキネ旬編集長の白井佳夫氏とイラストレーターの和田誠氏が来館されています。

昭和55年、中国映画としては日本初めてのロードショウ公開という『桜―さくらー』という映画を日中友好の架け橋にと名画座での上映に踏み切る。ところが試写会の前日の7月13日に藤原英記氏は心筋梗塞で61歳で急死、試写会は主のないまま開催された。その死は映画終了後、映画評論家の星加敏文さんによって報告されたが、観客は驚くとともに、映画に情熱を燃やし続けた藤原氏の死を悼んだ。

その後東京でサラリーマン生活を送っていた長男の勲さんが帰髙して映画館を継ぐ。昭和60年ごろから自主上映グループに劇場を貸す機会が増えてくる。映画館の番組案内にも自主上映の案内も表示してくれていた。昭和61年1月の名画座の番組案内には自主上映会の予定が6件も記載されている。その中の二つのグループは名称は違うけど裏で画策したのが当時高知東宝に勤務していた徹研の円尾敏郎さんでした。あと高知映画鑑賞会、日中友好協会、私たちがやっていた黄昏キネマ工房、そしてもう一つの浦山桐郎追悼映画会を主催したのが当時は窪川在住だった田辺浩三さんでした。

そして平成元年1月16日を最後に閉館する。私は友人と名画座の最後を見届けようと出かけました。映画終了後ロビーで星加敏文さんが中心になり輪になって戦前の映画の主題歌を歌っていました。その光景を館長と友人と僕の三人がちょっと離れて見ていた記憶があります。

この場所で大正、昭和、平成と三つの時代を生きてきた映画館の最後は私にとっては少し寂しいものとなりました。

成川自然農園(土佐市)の近くの小川には、全国的には珍しくなったイシガメが多い。だいたい甲長10cmくらいのが多いのだが、これはイシガメとしては最大級に大きく、甲長17cmもある。
今年は、めっきり数が少なくなっているようなので、ちょっと心配である。昨年の度重なる大水で下流に流されてしまったのかもしれない。
孫のたけちゃんが、水辺の生き物が大好きなので、たけちゃんを喜ばせてからまた元の場所に放してやろうと思う。
今日は、小6のY君を農園に連れて行った。学校の担任の先生が、「こんな優秀な子見たことありません」と言うほどの秀才である。作文を書かせると、10分くらいで400字を埋めてしまう。内容的にも個性的で唸らせる。何をさせても普通の子の5倍くらいのスピードで仕上げてしまう。頭の回転が速いということはそういうことなのだろう。
今日のY君は、昨日のY君の弟である。昨日は特に書かなかったが、中2のY君もまた秀才で、1度の説明で何でも100%理解するので、教える方がお金を払いたいくらいの生徒である。やはり、問題を解くスピードがすごい。
今日は、ニワトリの世話を終えてから、近くの小川にイシガメを捕りに行った。それから、畑のための鶏糞たい肥をバケツに入れて運んだ。重い方を私が持とうとすると、小さな体なのに、「重い方は、ボクが持ちます」と言う。続けて「先生、ボク、スポーツ万能なんですよ」と言う。現在は、合気道と柔道を習っていて、おもしろくて仕方がないようだ。
余談ながら、Y家の4兄弟はドラムを叩かせれば、感動的な腕前なのだという噂である。(長男は、現在、追手前高の2年生で、やはり成川塾のOBである。小3に4男がいるが、その子の噂は今のところ聞かない)
※写真は、大きなイシガメを持つY君。
中2のY君は、ゲームをしない。むしろ、ゲームを軽蔑している。それは、お父さんの教育方針の投影のようだ。それで、学校が予定外に休みになったりすると、家の中で勉強ばかりというわけにもいかないので、時間を持て余すこととなる。
昨夜の塾の休み時間に、「農園に行くか?」と聞くと、「行きたいです」と二つ返事だったので、今日の午前中は、農園の仕事を手伝ってもらった。休憩時間は、イタドリを採ったり、クレソンを採ったり、丘に登ったり、ご機嫌な午前中となった。有精卵のお土産と収穫物を両手に抱えてうれしそうに帰っていった。
Y君が「今度ボクに、ニワトリの解体をやらせてください」と言ったので、「いいよ」と応えておいた。ニワトリの内臓がどうなっているのか、知りたいのだそうだ。
土佐市ドラゴン広場近くの空き地では、桜が満開であった。と言っても、造花である。風車を孫に買ってやろうと思って車を停めたのだが、風車を引き抜こうとすると、「売り物じゃないかがやき」と叱られてしまった。
高知市在住のメルヘンおじさんは、趣味でこんなことをしているのだという。何を売っているということではなく、ただ、空き地に車を停めてその周囲に造花を咲かせ、風車で飾り、造花の間にお面や人形を並べているのであった。「人形に人間を見せたやっているのだ」と言う。
県庁を定年退職し、今は月16万の年金をもらって悠々自適のメルヘン生活ということらしい。家には、これの10倍くらいも造花を集めていると言う。どうでもいいが、独身らしい。

 

黄昏キネマ   岡本卓也

戦後の高知市における映画館の変遷をたどっていきたいとおもいます。

戦後すぐに映画を上映を開始したのは空襲の焼失を免れた三つの映画館でした。

下知地区にあった大和館(戦前は迎陽館、のちの城見第二劇場)、上町五丁目にあった大昌館(戦前は大勝館、のちの高知日劇東映)、旭町一丁目にあった千歳館(のちの高知名画座)の三館でした。大和館の開館が昭和20年の9月21日だから三館とも同じ頃だったと思います。

昭和21年4月22日に市内で4館目として開館したのが今回取り上げる高知映画劇場です。農人町の土佐倉庫の三階(二階だったという説もある)にあった映画館でオールドファン(85歳以上の方)には忘れがたい思い出を残したそうです。開館当初は大映、松竹の邦画を上映(開館一作目は阪妻の大映映画『新版・牢獄の花嫁前後編大会』でした)してます。そして新聞広告によると入場料金が大人1円50銭、小人50銭となってました。その後昭和21年6月7日に進駐軍民間情報教育局映画独占封切場としてチャップリンの『黄金狂時代』で新装開館する。その後は洋画専門の髙劇として営業する。また同年8月23日からの『カサブランカ』上映時には観客の多さで階段が壊れてけが人が出るほどの盛況ぶりだったそうです。昭和21年12月21日震度七の地震が高知市を襲った。南海大地震である。倉庫は大丈夫でしたけど映画館の客席は地震被災者の家族たちによって完全に占領されていたそうで30日まで休業して31日上映再開する。

翌22年1月18日に農人町の髙劇は閉館し新たに1月21日より上町五丁目の大昌館を借りて髙劇として映画上映をはじめる。また22年の途中からは帯屋町に開館したセントラル劇場と同じ映画の掛け持ち上映もおこなっていた。その後昭和23年1月26日、アボット・コステロの『凸凹宝島騒動』を最後に閉館する。

高知映画劇場の経営主体は旧軍人グループで映写機は終戦のどさくさに、日章航空隊のものを持ち出したものだったということです。そんな劇場に支配人として口説かれてやってきたのは信清悠久氏である。信清氏は組合を作って従業員の人権の目ざめをうながしたのです。『旧軍人グループがなぜ執拗にアカのぼくを支配人にしたがったのか不思議でしょうがなかった』(信清氏本人の文からの引用)

信清氏は22年春頃に経営人とのいざこざがあって映劇との縁をきっている。

『だだっ広いコンクリートの土間に粗末な白木の腰掛けをずらりと何十列かに並べただけの仮設映画館。いつはいってもあたりに小便の匂いがただよい、そのうえ、夏ともなるとムシムシとする最高の暑さの中で観客は肌着をびっしょりとぬらしながらの鑑賞を強いられた』これが当時連日のように満員の盛況を続けた高知映画劇場です。

左が高知日劇東映。右が現在の上町5丁目交差点
左が農人町の高知映画劇場。右が現在の土佐倉庫
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