高知映画劇場

 

黄昏キネマ   岡本卓也

戦後の高知市における映画館の変遷をたどっていきたいとおもいます。

戦後すぐに映画を上映を開始したのは空襲の焼失を免れた三つの映画館でした。

下知地区にあった大和館(戦前は迎陽館、のちの城見第二劇場)、上町五丁目にあった大昌館(戦前は大勝館、のちの高知日劇東映)、旭町一丁目にあった千歳館(のちの高知名画座)の三館でした。大和館の開館が昭和20年の9月21日だから三館とも同じ頃だったと思います。

昭和21年4月22日に市内で4館目として開館したのが今回取り上げる高知映画劇場です。農人町の土佐倉庫の三階(二階だったという説もある)にあった映画館でオールドファン(85歳以上の方)には忘れがたい思い出を残したそうです。開館当初は大映、松竹の邦画を上映(開館一作目は阪妻の大映映画『新版・牢獄の花嫁前後編大会』でした)してます。そして新聞広告によると入場料金が大人1円50銭、小人50銭となってました。その後昭和21年6月7日に進駐軍民間情報教育局映画独占封切場としてチャップリンの『黄金狂時代』で新装開館する。その後は洋画専門の髙劇として営業する。また同年8月23日からの『カサブランカ』上映時には観客の多さで階段が壊れてけが人が出るほどの盛況ぶりだったそうです。昭和21年12月21日震度七の地震が高知市を襲った。南海大地震である。倉庫は大丈夫でしたけど映画館の客席は地震被災者の家族たちによって完全に占領されていたそうで30日まで休業して31日上映再開する。

翌22年1月18日に農人町の髙劇は閉館し新たに1月21日より上町五丁目の大昌館を借りて髙劇として映画上映をはじめる。また22年の途中からは帯屋町に開館したセントラル劇場と同じ映画の掛け持ち上映もおこなっていた。その後昭和23年1月26日、アボット・コステロの『凸凹宝島騒動』を最後に閉館する。

高知映画劇場の経営主体は旧軍人グループで映写機は終戦のどさくさに、日章航空隊のものを持ち出したものだったということです。そんな劇場に支配人として口説かれてやってきたのは信清悠久氏である。信清氏は組合を作って従業員の人権の目ざめをうながしたのです。『旧軍人グループがなぜ執拗にアカのぼくを支配人にしたがったのか不思議でしょうがなかった』(信清氏本人の文からの引用)

信清氏は22年春頃に経営人とのいざこざがあって映劇との縁をきっている。

『だだっ広いコンクリートの土間に粗末な白木の腰掛けをずらりと何十列かに並べただけの仮設映画館。いつはいってもあたりに小便の匂いがただよい、そのうえ、夏ともなるとムシムシとする最高の暑さの中で観客は肌着をびっしょりとぬらしながらの鑑賞を強いられた』これが当時連日のように満員の盛況を続けた高知映画劇場です。

左が高知日劇東映。右が現在の上町5丁目交差点
左が農人町の高知映画劇場。右が現在の土佐倉庫