トーク岡本

千歳館は戦前からの映画館で戦後すぐに映画を上映を始めた空襲で焼け残った3館の一つです。場所は上町五丁目の交差点を少し西の電車通りの南側でした。昭和20年12月に『愛染かつら』を上映した時には慰楽を求めて長蛇の列だったと高知新聞に写真入りで掲載されていました。この頃は主に松竹映画を上映していた。また昭和21年2月には高知では戦後初めてのアメリカ映画として『ウエヤ一殺人事件』を城見町にあった大和館と二館同時に公開しています。昭和24年頃にちとせ劇場に改名する。昭和29年12月に上映された松竹映画の『忠臣蔵』がちとせ創立30周年記念特別興行という新聞広告から開館は大正13年頃だと推測される。ということは開館時には弁士楽士つきの無声映画を上映していたということです。

平成元年2月高知新聞の熟年ポストという読者投稿欄に当時77歳の宮本初義さんが無声映画を上映していた頃の千歳館の様子を『歌う映画案内人』として投稿されています。スクリーンの前のオーケストラボックスには楽団員が控えている。最後に三味線を抱えたおばさんがはいってくると映画がはじまる。映画に主題歌があるとその楽譜を販売しお客はそれを買って場内にはいる。スクリーンの横には映画案内人とよばれた女給さんが三、四人待機している。お客さんが来ると懐中電灯で席まで案内し、美男美女が銀幕に登場し音楽が盛り上がると女給さんたちが一斉に歌い出す。生の歌声と生の音楽の映画主題歌である。お客さんも唱和し、覚えて帰り、ちまたに流行するのである。昭和6年に日本初のトーキー映画ができた。これにより歌う映画案内人は楽団員と共に消えてしまった。私も学生時代から名画座にはよく通ったんだが当時もスクリーンの左横に少し凹みがあった。今思うにそれがオーケストラボックスの跡だったような気がします。

昭和34年頃から42年にかけてちとせ東映、ちとせ東宝、ちとせ日活と各社の映画を上映し、また昭和39年ごろには日活の封切りと和製ピンク映画を交互に上映していたこともあった。昭和39年7月には唄う日活青春スター夢のステージと題して浜田光夫と松原智恵子が来館している。昭和36年に東宝リベラル労組が賃上げを要求し一ヶ月ちょっと無期限ストライキにはいった時は東宝の代わりにこの映画館で上映されていた。加山雄三の『大学の若大将』はここで封切ぎられています。

昭和42年5月に経営が越知町で映画館やっていた藤原英記氏に変わって館名もちとせ名画座になる。開館番組はビートルズの『ビートルズがやってくるヤアヤアヤア』と『ヘルプ』の二本立てでした。藤原英記氏は40年頃から旭駅前通りにあった旭東宝を借りて約二年間位旭名画座も経営していた。昭和42年に限れば藤原氏は2館の名画座を経営していたことになります。昭和44年に『ロミオとジュリエット』を上映した時はお客さんが切符売り場から5丁目交差点を南へ曲がった所まで並んでいて場内は立ち見でした。この大入りがあったせいか次週からは館名が、ちとせがなくなり高知名画座に変わっていました。

映画ファンと歩む名画座は藤原氏の映画への情熱で創られ高知県の文化向上に貢献されたと思います。『ベニスに死す』『わが青春のフローレンス』『ラストショー』『狼は天使の匂い』など多くの名作が上映されました。昭和49年に開催された『恋のエチュード』の試写会にはキネ旬編集長の白井佳夫氏とイラストレーターの和田誠氏が来館されています。

昭和55年、中国映画としては日本初めてのロードショウ公開という『桜―さくらー』という映画を日中友好の架け橋にと名画座での上映に踏み切る。ところが試写会の前日の7月13日に藤原英記氏は心筋梗塞で61歳で急死、試写会は主のないまま開催された。その死は映画終了後、映画評論家の星加敏文さんによって報告されたが、観客は驚くとともに、映画に情熱を燃やし続けた藤原氏の死を悼んだ。

その後東京でサラリーマン生活を送っていた長男の勲さんが帰髙して映画館を継ぐ。昭和60年ごろから自主上映グループに劇場を貸す機会が増えてくる。映画館の番組案内にも自主上映の案内も表示してくれていた。昭和61年1月の名画座の番組案内には自主上映会の予定が6件も記載されている。その中の二つのグループは名称は違うけど裏で画策したのが当時高知東宝に勤務していた徹研の円尾敏郎さんでした。あと高知映画鑑賞会、日中友好協会、私たちがやっていた黄昏キネマ工房、そしてもう一つの浦山桐郎追悼映画会を主催したのが当時は窪川在住だった田辺浩三さんでした。

そして平成元年1月16日を最後に閉館する。私は友人と名画座の最後を見届けようと出かけました。映画終了後ロビーで星加敏文さんが中心になり輪になって戦前の映画の主題歌を歌っていました。その光景を館長と友人と僕の三人がちょっと離れて見ていた記憶があります。

この場所で大正、昭和、平成と三つの時代を生きてきた映画館の最後は私にとっては少し寂しいものとなりました。

 

黄昏キネマ   岡本卓也

戦後の高知市における映画館の変遷をたどっていきたいとおもいます。

戦後すぐに映画を上映を開始したのは空襲の焼失を免れた三つの映画館でした。

下知地区にあった大和館(戦前は迎陽館、のちの城見第二劇場)、上町五丁目にあった大昌館(戦前は大勝館、のちの高知日劇東映)、旭町一丁目にあった千歳館(のちの高知名画座)の三館でした。大和館の開館が昭和20年の9月21日だから三館とも同じ頃だったと思います。

昭和21年4月22日に市内で4館目として開館したのが今回取り上げる高知映画劇場です。農人町の土佐倉庫の三階(二階だったという説もある)にあった映画館でオールドファン(85歳以上の方)には忘れがたい思い出を残したそうです。開館当初は大映、松竹の邦画を上映(開館一作目は阪妻の大映映画『新版・牢獄の花嫁前後編大会』でした)してます。そして新聞広告によると入場料金が大人1円50銭、小人50銭となってました。その後昭和21年6月7日に進駐軍民間情報教育局映画独占封切場としてチャップリンの『黄金狂時代』で新装開館する。その後は洋画専門の髙劇として営業する。また同年8月23日からの『カサブランカ』上映時には観客の多さで階段が壊れてけが人が出るほどの盛況ぶりだったそうです。昭和21年12月21日震度七の地震が高知市を襲った。南海大地震である。倉庫は大丈夫でしたけど映画館の客席は地震被災者の家族たちによって完全に占領されていたそうで30日まで休業して31日上映再開する。

翌22年1月18日に農人町の髙劇は閉館し新たに1月21日より上町五丁目の大昌館を借りて髙劇として映画上映をはじめる。また22年の途中からは帯屋町に開館したセントラル劇場と同じ映画の掛け持ち上映もおこなっていた。その後昭和23年1月26日、アボット・コステロの『凸凹宝島騒動』を最後に閉館する。

高知映画劇場の経営主体は旧軍人グループで映写機は終戦のどさくさに、日章航空隊のものを持ち出したものだったということです。そんな劇場に支配人として口説かれてやってきたのは信清悠久氏である。信清氏は組合を作って従業員の人権の目ざめをうながしたのです。『旧軍人グループがなぜ執拗にアカのぼくを支配人にしたがったのか不思議でしょうがなかった』(信清氏本人の文からの引用)

信清氏は22年春頃に経営人とのいざこざがあって映劇との縁をきっている。

『だだっ広いコンクリートの土間に粗末な白木の腰掛けをずらりと何十列かに並べただけの仮設映画館。いつはいってもあたりに小便の匂いがただよい、そのうえ、夏ともなるとムシムシとする最高の暑さの中で観客は肌着をびっしょりとぬらしながらの鑑賞を強いられた』これが当時連日のように満員の盛況を続けた高知映画劇場です。

左が高知日劇東映。右が現在の上町5丁目交差点
左が農人町の高知映画劇場。右が現在の土佐倉庫