月別: 2020年4月

成川自然農園(土佐市)の近くの小川には、全国的には珍しくなったイシガメが多い。だいたい甲長10cmくらいのが多いのだが、これはイシガメとしては最大級に大きく、甲長17cmもある。
今年は、めっきり数が少なくなっているようなので、ちょっと心配である。昨年の度重なる大水で下流に流されてしまったのかもしれない。
孫のたけちゃんが、水辺の生き物が大好きなので、たけちゃんを喜ばせてからまた元の場所に放してやろうと思う。
今日は、小6のY君を農園に連れて行った。学校の担任の先生が、「こんな優秀な子見たことありません」と言うほどの秀才である。作文を書かせると、10分くらいで400字を埋めてしまう。内容的にも個性的で唸らせる。何をさせても普通の子の5倍くらいのスピードで仕上げてしまう。頭の回転が速いということはそういうことなのだろう。
今日のY君は、昨日のY君の弟である。昨日は特に書かなかったが、中2のY君もまた秀才で、1度の説明で何でも100%理解するので、教える方がお金を払いたいくらいの生徒である。やはり、問題を解くスピードがすごい。
今日は、ニワトリの世話を終えてから、近くの小川にイシガメを捕りに行った。それから、畑のための鶏糞たい肥をバケツに入れて運んだ。重い方を私が持とうとすると、小さな体なのに、「重い方は、ボクが持ちます」と言う。続けて「先生、ボク、スポーツ万能なんですよ」と言う。現在は、合気道と柔道を習っていて、おもしろくて仕方がないようだ。
余談ながら、Y家の4兄弟はドラムを叩かせれば、感動的な腕前なのだという噂である。(長男は、現在、追手前高の2年生で、やはり成川塾のOBである。小3に4男がいるが、その子の噂は今のところ聞かない)
※写真は、大きなイシガメを持つY君。
中2のY君は、ゲームをしない。むしろ、ゲームを軽蔑している。それは、お父さんの教育方針の投影のようだ。それで、学校が予定外に休みになったりすると、家の中で勉強ばかりというわけにもいかないので、時間を持て余すこととなる。
昨夜の塾の休み時間に、「農園に行くか?」と聞くと、「行きたいです」と二つ返事だったので、今日の午前中は、農園の仕事を手伝ってもらった。休憩時間は、イタドリを採ったり、クレソンを採ったり、丘に登ったり、ご機嫌な午前中となった。有精卵のお土産と収穫物を両手に抱えてうれしそうに帰っていった。
Y君が「今度ボクに、ニワトリの解体をやらせてください」と言ったので、「いいよ」と応えておいた。ニワトリの内臓がどうなっているのか、知りたいのだそうだ。
土佐市ドラゴン広場近くの空き地では、桜が満開であった。と言っても、造花である。風車を孫に買ってやろうと思って車を停めたのだが、風車を引き抜こうとすると、「売り物じゃないかがやき」と叱られてしまった。
高知市在住のメルヘンおじさんは、趣味でこんなことをしているのだという。何を売っているということではなく、ただ、空き地に車を停めてその周囲に造花を咲かせ、風車で飾り、造花の間にお面や人形を並べているのであった。「人形に人間を見せたやっているのだ」と言う。
県庁を定年退職し、今は月16万の年金をもらって悠々自適のメルヘン生活ということらしい。家には、これの10倍くらいも造花を集めていると言う。どうでもいいが、独身らしい。

 

黄昏キネマ   岡本卓也

戦後の高知市における映画館の変遷をたどっていきたいとおもいます。

戦後すぐに映画を上映を開始したのは空襲の焼失を免れた三つの映画館でした。

下知地区にあった大和館(戦前は迎陽館、のちの城見第二劇場)、上町五丁目にあった大昌館(戦前は大勝館、のちの高知日劇東映)、旭町一丁目にあった千歳館(のちの高知名画座)の三館でした。大和館の開館が昭和20年の9月21日だから三館とも同じ頃だったと思います。

昭和21年4月22日に市内で4館目として開館したのが今回取り上げる高知映画劇場です。農人町の土佐倉庫の三階(二階だったという説もある)にあった映画館でオールドファン(85歳以上の方)には忘れがたい思い出を残したそうです。開館当初は大映、松竹の邦画を上映(開館一作目は阪妻の大映映画『新版・牢獄の花嫁前後編大会』でした)してます。そして新聞広告によると入場料金が大人1円50銭、小人50銭となってました。その後昭和21年6月7日に進駐軍民間情報教育局映画独占封切場としてチャップリンの『黄金狂時代』で新装開館する。その後は洋画専門の髙劇として営業する。また同年8月23日からの『カサブランカ』上映時には観客の多さで階段が壊れてけが人が出るほどの盛況ぶりだったそうです。昭和21年12月21日震度七の地震が高知市を襲った。南海大地震である。倉庫は大丈夫でしたけど映画館の客席は地震被災者の家族たちによって完全に占領されていたそうで30日まで休業して31日上映再開する。

翌22年1月18日に農人町の髙劇は閉館し新たに1月21日より上町五丁目の大昌館を借りて髙劇として映画上映をはじめる。また22年の途中からは帯屋町に開館したセントラル劇場と同じ映画の掛け持ち上映もおこなっていた。その後昭和23年1月26日、アボット・コステロの『凸凹宝島騒動』を最後に閉館する。

高知映画劇場の経営主体は旧軍人グループで映写機は終戦のどさくさに、日章航空隊のものを持ち出したものだったということです。そんな劇場に支配人として口説かれてやってきたのは信清悠久氏である。信清氏は組合を作って従業員の人権の目ざめをうながしたのです。『旧軍人グループがなぜ執拗にアカのぼくを支配人にしたがったのか不思議でしょうがなかった』(信清氏本人の文からの引用)

信清氏は22年春頃に経営人とのいざこざがあって映劇との縁をきっている。

『だだっ広いコンクリートの土間に粗末な白木の腰掛けをずらりと何十列かに並べただけの仮設映画館。いつはいってもあたりに小便の匂いがただよい、そのうえ、夏ともなるとムシムシとする最高の暑さの中で観客は肌着をびっしょりとぬらしながらの鑑賞を強いられた』これが当時連日のように満員の盛況を続けた高知映画劇場です。

左が高知日劇東映。右が現在の上町5丁目交差点
左が農人町の高知映画劇場。右が現在の土佐倉庫

私は1982年~1985年までサイパンインターコンチネンタルホテル「京王レストラン」のマネジャーとして勤務していました。毎年年末にはご家族で宿泊なさってたと記憶しています。そしてほぼ毎日「京王レストラン」をご利用いただきました。そして食事の合間に加山さんのお話を直接お聞きし感激したことを覚えています。

そのころ加山さんから直接お聞きした話では 、1970年茅ケ崎ホテルでの巨額の負債を抱えアメリカに渡り安アパートの一室でリンゴ箱を机代わりに、大学で学んだ法律をもう一度真剣に勉強をなさったこと、この経験を口述手記で出版したこと、そして一番の思い出はサイパンインターコンチのお客様でありました加山さんの友人俳優の本郷淳さんと一緒に光進丸を訪ねたこと、各部屋にはギターが置かれ、その部屋でとっておきのウヰスキーをごちそうになりながら加山さんから家族、船にたいする想い、海の素晴らしさをお聞きしました。奥様との出会いのエピソードとして光進丸に初めて女性を何人かお迎えしたとき船がかなり揺れ、その時奥様が踏ん張ってキャビネットを押さえたその姿を見、好しこの女性と結婚をと決められたことなど微笑ましいお話を聞いたことを思い出します。またその頃500トン級の船を造る計画があり模型を見せていただいた記憶もあります。海に自然にふれあう喜びを楽しく語っていただき、海を尊び家族を愛する海の若大将の想いを存分に聞け幸せな夜でした。

私は現在ふるさと高知に帰り一般社団法人高知サマサマCCRCセンター(サマサマとはインドネシア語でおかげさまという意味)を運営しながら人口過密な首都圏から少子高齢化最先端の高知県へ元気で知識欲旺盛なシニア世代を呼び込む事業に取り組んでいます。

私の生まれ故郷は高知県土佐清水市中央町、生まれ育った家の前には中浜万次郎の歌碑が立っています「村田英雄のあぁ万次郎」です。ジョンマンは1827年、土佐清水市中ノ浜に生まれ、14歳の冬カツオ漁に出、嵐に合い鳥島に流されます。数年後アメリカの捕鯨船に助けられアメリカで航海士の勉強を受け、世界の海を捕鯨船に乗って巡っています。(ミクロネシアの島々、インドネシアジャワ島、小笠原諸島にも立ち寄っているようです)

ペリーが浦賀に来航する160数年前ジョン万次郎は世界の海を捕鯨船で巡り、一人カリフォルニアの金鉱に出向き資金を得てアドベンチャー号を購入しアメリカから10年の時を経て鎖国日本琉球に上陸、薩摩藩島津斉彬藩主にアメリカ事情を話し、土佐に帰り河田小龍が聞き取りをしてそれを坂本龍馬に伝える。龍馬は世界と貿易するビジョンを持ち海援隊を結成する。

ご承知の通り名り1860年(万延元年)咸臨丸にてサンフランシスコへ渡るこの運航での万次郎の活躍はブルック大尉の記述に書かれています。(咸臨丸ブルック大尉と検索すれば出ます)。万次郎のアドバイスで慶應義塾の創始者福沢諭吉がウエブスター英語辞書をアメリカで手に入れたことは有名な話です。(慶応義塾大学出身加山さんの父上は薩摩藩士の末裔)

ジョン万次郎は島津斉彬の命で薩摩藩士や船大工に洋式の造船技術や航海術を教えています。

ジョン万次郎は150年以上前にアメリカの「ボーディッチ航海術書」を翻訳しています。

ジョンマン次郎は幕府の軍艦操練所の教授でありました。

ジョン万次郎は小笠原諸島の開拓調査をしています。

ジョン万次郎はアコーディオンの名手でありフォースターの曲を奏でていたと記述に在ります。

海を尊び汽船を動かせ音楽を奏でる昭和の海の男「加山雄三」に幕末の海の男「ジョン万次郎」の功績を顕彰していただき是非「世界ジョンマン会」の名誉会長にご就任していただきたく思います。

日本の人口減少、高齢化・少子化が進む中で、地方の状況は、耕作放棄地と同様、空き家の対策も急がれる。空き家が沢山あるといっても、不動産売買、賃貸契約に至る前に、所有者や権利者の法的手続きが整わなければ実際に住めるようにはならないし、所有者の家具や荷物、仏壇等を処理しなければならない。更には、古民家の場合等は、かなりのリフォームや修理、立て直し等、手を入れなければ住めない住宅も多い。古民家の場合、修理するより立て直した方が、先行きを考えると安上がりのケースもある。

最近人口が70万人を割り込んだ高知県の状況では、およそ、住宅戸数は34万戸、空き家は5.8万戸で、約17%が空き家ということになる。これでも、都道府県の中では中ほどに位置するようである。全国的に地方は大変な状況といえる。空き家対策に関しては、高知県では土木部住宅課が窓口で、「空き家再生・活用促進専門家グループ」が最近立ち上がっている。取組の内容は、市町村が実施する空き家の調査、実態の把握に関する業務の支援。空き家を再生・活用するための改修設計及び改修工事に関する技術的な業務支援。再生した空き家の管理・運営に関する専門的な業務の支援。利用者側と提供者側双方の要望を踏まえた再生計画の策定の支援。空き家を活用した移住促進するための業務の支援。等を上げている。

最近、何人かの知り合いから、「家屋敷、山林田畑も含めて何方かに差し上げたい」とか、「老人ホームに入居するので住宅を何方かに譲りたい」等、相談を受ける。私が現在住んでいる、香美市土佐山田の家は、最近まで私の父の一番下の弟が夫婦で住んでいて、元気なころは、畑や田圃を耕し、乳牛を飼っていた。8年ほど前にご夫婦とも高齢と持病で亡くなり空き家になった。故郷を何とか残したいと、妻と息子(大学生)を東京に残し、6年前に移り住んだ。私の記憶では、60年前の学生の頃、この故郷へ父と一緒に戻ると、近所の大勢の知り合いが、用水で洗濯等をしていて、良く帰ってきたと、皆が歓迎してくれた。そこが今では、道行く人も普段は見かけず、隣の家の親戚も今では年配の従弟の婦人が一人で住んでいる。並びの家々には、空き家も散見される。

私は現在、首都圏のシニアの高知への移住促進の仕事にも取り組んでいるが、移住しやすい環境を整えることが大切と考えている。それには、空き家の活用は重要なテーマでもある。高知県の各自治体の移住に関する取り組みとそれに関連する民間団体との交流も大切な活動でもあるので、その共通の課題として、空き家の活用を進めていきたい。

昔は、地域住民との交流は無くてはならない生活の基盤であったと思われるが、最近では田舎でも隣人との交流がほとんどない場合も増えている。今後は、それぞれの地域の隣人との共通の課題として、地域で空き家を管理していく仕組みに取組んでいくことにしてはどうでしょうか。地域は過疎になりつつあるが、再度、隣人との共通の課題で、空き家を管理・活用する課題に取り組むことで、地域力を盛り上げていくことにならないだろうか。

 35年新聞記者をして9年前、高知に帰ってきた。たまたま開催していた土佐山アカデミーに参加した。たった3カ月の住み込み学習で僕はて生きるということに目覚めた。

アカデミー仲間と作った土佐山七厘社で焼いた木炭を販売するため、真冬にある日、はりまや橋商店街の金曜市で「露天商」を始めた。

暖かくなると木炭が売れなくなった。知り合った旧鏡村村の仙人のようなおじいさんから「山菜を売りや」と言われた。山菜は売るものだという認識はなかった。山菜は取るものだと思っていたが、この仙人は「ここからあこまではおらんくの山、かってに取っていきや」と言われて山菜売りを始めた。

それこそ、驚きの販売を記録した。売った商品はタケノコ、イタドリ、フキ、クレソン……。1日の売り上げが4万円に達した。商品はすべて「100円」に設定した。だから400売れたということになる。

露天商というのは商売の始まりであることは多くの人から聞いていた。初めは道路に物を置いて売る。ちょっと金が貯まれば、ようやくリヤカーで売ることになる。僕はリヤカーに近い形で商売を始めた。

柴又の寅さんではないが、いつまでも露天商というのは恥ずかしい。いつかは店舗を持ちたい。6年経ってそんな思いが実現したのがWaterBaseだ。

コンセプトは街角サロン。誰もが集える場所を作りたかった。喫茶店でもいい。木工所でもいい。あるいは展覧会場やミニコンサート会場でもいい。  そんな思いで昨年9月、WaterBaseを開設した。お金がないので壁から内装、調度品はすべて自作した。ありがたいことに資材はほとんど友だちからもらった。

恰好いえばマルチパーパスのサロンなのだが、これまでいろいろなイベントをこなしてきた。まずは絵金誕生祭。次いで落語を鑑賞する会。土佐山田高校の学生たちを巻き込んだクルザー船おもてなし広場もやった。忘年会会場は月並みだが、年を超えて懐かし映画のポスター展。

そもそもなぜWaterBaseなのか。たまたま政府の水道の民営化路線に反発して昨年4月の市議選に立候補したことから水道のことを考えて行きたいを考えて命名した。

問題はいつまで続くかということである。大家さんとの契約では8月末までということになっている。「開店」してから半年が経つが、人の交流は日々拡大している。商店街に不可欠な存在として認められることになるのなら、9月以降も何とか場所を変えても継続したい。

有難いことに僕の趣旨に賛同して寄附をしてくれる市民が何人か現れ始めていることである。不思議なことに11月からは家賃を支払って黒字経営をしている。WaterBaseを始めて分かったことは、人生一人ではないということである。志をもって何かを始めれば何かが始まるということである。7年前、土佐山で炭焼きを始めなければ絶対に今の僕はない。

ぜひ高知市のはりまや橋商店街のWaterBeseのお越しください。あなたの明日が始まるかもしれません。