月別: 2020年5月

1951僕が生まれたのはジョン万次郎の故郷土佐清水市です。京都、大阪で幼年時代を過ごし、訳あって小学1年の時、土佐清水市に舞い戻り祖父母の経営する食料品店で育ちました。

当時の土佐清水は宗田ガツオ(めじか)で景気よく料亭千福、キャバレー銀馬車、映画館は(東宝、日活、東映、松竹系)と4館あり大盛況でした。小学生時代、佐田啓二主演の映画「雲が流れるとき」土佐清水ロケで県交通バスの車掌役の倍賞千恵子が祖父母の経営する食料品店に卵を買いに来てました。はじめての芸能人との遭遇でした。

当時日活映画全盛の時代,裕ちゃん、エースの錠、マイトガイの旭が憧れの銀幕スターでした。守屋浩のぼくの恋人東京へイッチッチ(僕は泣いちっち)を聞き東京に強い憧れを持っていました。歌謡テレビ番組はお昼に放映されていた「ロッテ歌のアルバム」御三家の一人舟木一夫の「学園広場」をよく口ずさんでました。

中2から高知市菜園場の近くに引っ越し友人から教えてもらったラジオ番組「小島正夫の9500万人のポピュラーリクエスト」に聞き入りポップスに出会いました。ジョニーシンバルの「ミスターベースマン」ボビーソロの「頬にかかる涙」シングル盤のレコードを初めてお小遣いで買いました。ラジオからテレビへ小学生時代は力道山にルーテルズ、栃錦に若乃花、長嶋に村山の対戦に熱狂しました。NHK[夢で逢いましょう」徳川無声の「私だけが知っている」民法は高知放送(RKC)1局のみで午後6時からの「光子の部屋」から「シャボン玉ホリディー」に釘づけでした。中学2年に「東京オリンピック」高校1年時は「ビートルズ初来日武道館公演」でした。

高校卒業後は麹町の東京YMCA国際ホテル学校に入学、六本木にある岩崎久弥の屋敷跡「国際文化会館」でナイトクロークのバイト、水上勉、三島由紀夫が来店していたステーキハウス銀座「末広」でのバイト(仕事帰り日比谷公園松本楼の火事に遭遇)映画はイタリア文化会館、テアトル東京でアラビアのロレンス、、並木座で私が捨てた女、音楽ライブは渋谷ジャンジャンでハッピーエンドライブ、演劇は渋谷の天井桟敷、紀伊国屋ホールでつかこうへい「熱海殺人事件」等バイトの合間に各劇場へ足げく通い東京文化を満喫しておりました。

ホテル学校卒業後は西新宿新都心にできた超高層ホテル「京王プラザホテル」3期生として入社、初年度の配属は格調高いメインバーブリアン、一流デザイナー剣持氏の設計で湾曲したカウンターの背景には土門拳のモノクロ写真、ゆったりしたブース横の調度品には淡い間接照明、朝10時から深夜2時までオープンしており経済人、小説家、芸能人、スポーツ関係者様々な人間模様が垣間見られました。フレンチレストランのサービスマンを経てルームサービスを担当、マイルスデイビスにソールボンファン(舌平目のムニエル)を、モハメドアリにフレッシュオレンジジュースを部屋までルームサービスしたこと、世界的指揮者カラヤン宿泊期間は隣の部屋で一晩中待機するバトラー補助を担当しました。部屋に入ると美人の通訳と共に深紅の大きなバラが飾られていました。カラヤン専属スタッフから普門会館で開演されるカラヤン指揮のクラシックコンサートのチケットを頂き最初で最後のクラシック音楽ライブを鑑賞しました。

 高知は坂本龍馬ばかりが有名であるが、幕末そして自由民権運動で時代をリードする人材を生んだ。幕末には龍馬を初め多くの志士が命を落とした。190人余りという数字は薩摩や長州を大きく凌駕する。にも関わらず、その10年後の自由民権でもまだまだ人材を残していた。幕末を人材の第一弾ロケットとしたら、自由民権は土佐が発した第二弾ロケットだった。

 小野梓を知っているだろうか。だれもが早稲田大学の開祖は大隈重信だと思っているが、大隈が夢見た育英事業を実際に実現したのは土佐出身の小野梓という青年だった。

小野は土佐の西のはずれの宿毛という町の出身。どういうわけか宿毛から多くの民権論者が輩出している。吉田茂の実父である自由党の竹内綱、林有造、岩村通俊、大江卓と続くが、先陣を切ったのは小野梓といっていい。

ペリーが日本にやってきた嘉永5年(1852)、に生まれ、明治3年7月、18歳の夏、ひとりで上海にわたり、西洋の東洋侵略のありさまをつぶさに見て目を開かされる。上海の宿で世界連邦論ともいえる『救民論』を漢文で書き上げていた。

 

 翌年、アメリカに遊学し、さらに明治5年には大蔵省派遣の留学生としてロンドンに逗留する。ロンドンでは財政 学を学ぶが、小野の関心はイギリスの政治にあった。英国国会に通い、グラッドストーンとディズレリーの議論を目の当たりにして、非常な感動を覚えたとい う。帰国してさらに著したのが『国憲論網』。日本での立憲政治の実現を訴えた。まさに民権運動の先駆け的存在が小野梓だったといっていい。

明治9年には司法省入りし、民法課副長として民法制定の基礎づくりにあたる。参議だった大隈重信に見いだされたのはこの時だったようだ。その後、元老院書記、会計検査官を歴任し、北海道開拓使官有地払い下げ問題では大隈とともに黒田清隆らを糾弾する先鋒に立った。

この事件の後、大隈らは明治政府からたもとをわかって下野した。大隈を党首として立憲改進党が誕生したのは明治15年のこと。小野は改進党の最高幹部の一人として活躍する。

早稲田大学の前身である東京専門学校が生まれたのは改進党創設から半年後のこと。早稲田にあった大隈の所有地に建設された。小野は会計検査官時代から浅 草・橋場に住んでいたが、当時から小野の家は学生のたまり場となっていて、毎夜、天下国家を論じていた。いつのころか「鷗渡会」と呼ばれる集まりとなり、 この若者集団が改進党や東京専門学校設立をバックアップしたのだった。

小野梓なかりせば、たぶん今の早稲田大学はなかった。

小野は若いころから肺結核を病んでいて33歳で世を去る。1886年であるから帝国議会の開設を知らない。

千歳館は戦前からの映画館で戦後すぐに映画を上映を始めた空襲で焼け残った3館の一つです。場所は上町五丁目の交差点を少し西の電車通りの南側でした。昭和20年12月に『愛染かつら』を上映した時には慰楽を求めて長蛇の列だったと高知新聞に写真入りで掲載されていました。この頃は主に松竹映画を上映していた。また昭和21年2月には高知では戦後初めてのアメリカ映画として『ウエヤ一殺人事件』を城見町にあった大和館と二館同時に公開しています。昭和24年頃にちとせ劇場に改名する。昭和29年12月に上映された松竹映画の『忠臣蔵』がちとせ創立30周年記念特別興行という新聞広告から開館は大正13年頃だと推測される。ということは開館時には弁士楽士つきの無声映画を上映していたということです。

平成元年2月高知新聞の熟年ポストという読者投稿欄に当時77歳の宮本初義さんが無声映画を上映していた頃の千歳館の様子を『歌う映画案内人』として投稿されています。スクリーンの前のオーケストラボックスには楽団員が控えている。最後に三味線を抱えたおばさんがはいってくると映画がはじまる。映画に主題歌があるとその楽譜を販売しお客はそれを買って場内にはいる。スクリーンの横には映画案内人とよばれた女給さんが三、四人待機している。お客さんが来ると懐中電灯で席まで案内し、美男美女が銀幕に登場し音楽が盛り上がると女給さんたちが一斉に歌い出す。生の歌声と生の音楽の映画主題歌である。お客さんも唱和し、覚えて帰り、ちまたに流行するのである。昭和6年に日本初のトーキー映画ができた。これにより歌う映画案内人は楽団員と共に消えてしまった。私も学生時代から名画座にはよく通ったんだが当時もスクリーンの左横に少し凹みがあった。今思うにそれがオーケストラボックスの跡だったような気がします。

昭和34年頃から42年にかけてちとせ東映、ちとせ東宝、ちとせ日活と各社の映画を上映し、また昭和39年ごろには日活の封切りと和製ピンク映画を交互に上映していたこともあった。昭和39年7月には唄う日活青春スター夢のステージと題して浜田光夫と松原智恵子が来館している。昭和36年に東宝リベラル労組が賃上げを要求し一ヶ月ちょっと無期限ストライキにはいった時は東宝の代わりにこの映画館で上映されていた。加山雄三の『大学の若大将』はここで封切ぎられています。

昭和42年5月に経営が越知町で映画館やっていた藤原英記氏に変わって館名もちとせ名画座になる。開館番組はビートルズの『ビートルズがやってくるヤアヤアヤア』と『ヘルプ』の二本立てでした。藤原英記氏は40年頃から旭駅前通りにあった旭東宝を借りて約二年間位旭名画座も経営していた。昭和42年に限れば藤原氏は2館の名画座を経営していたことになります。昭和44年に『ロミオとジュリエット』を上映した時はお客さんが切符売り場から5丁目交差点を南へ曲がった所まで並んでいて場内は立ち見でした。この大入りがあったせいか次週からは館名が、ちとせがなくなり高知名画座に変わっていました。

映画ファンと歩む名画座は藤原氏の映画への情熱で創られ高知県の文化向上に貢献されたと思います。『ベニスに死す』『わが青春のフローレンス』『ラストショー』『狼は天使の匂い』など多くの名作が上映されました。昭和49年に開催された『恋のエチュード』の試写会にはキネ旬編集長の白井佳夫氏とイラストレーターの和田誠氏が来館されています。

昭和55年、中国映画としては日本初めてのロードショウ公開という『桜―さくらー』という映画を日中友好の架け橋にと名画座での上映に踏み切る。ところが試写会の前日の7月13日に藤原英記氏は心筋梗塞で61歳で急死、試写会は主のないまま開催された。その死は映画終了後、映画評論家の星加敏文さんによって報告されたが、観客は驚くとともに、映画に情熱を燃やし続けた藤原氏の死を悼んだ。

その後東京でサラリーマン生活を送っていた長男の勲さんが帰髙して映画館を継ぐ。昭和60年ごろから自主上映グループに劇場を貸す機会が増えてくる。映画館の番組案内にも自主上映の案内も表示してくれていた。昭和61年1月の名画座の番組案内には自主上映会の予定が6件も記載されている。その中の二つのグループは名称は違うけど裏で画策したのが当時高知東宝に勤務していた徹研の円尾敏郎さんでした。あと高知映画鑑賞会、日中友好協会、私たちがやっていた黄昏キネマ工房、そしてもう一つの浦山桐郎追悼映画会を主催したのが当時は窪川在住だった田辺浩三さんでした。

そして平成元年1月16日を最後に閉館する。私は友人と名画座の最後を見届けようと出かけました。映画終了後ロビーで星加敏文さんが中心になり輪になって戦前の映画の主題歌を歌っていました。その光景を館長と友人と僕の三人がちょっと離れて見ていた記憶があります。

この場所で大正、昭和、平成と三つの時代を生きてきた映画館の最後は私にとっては少し寂しいものとなりました。